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ほんの4年前、日本で「ハリー・ポッター」の名を知る者はほとんどいなかった。「ほうきを持った子供、屋根から飛び降りる」。英国でこんな社会問題が浮上していたころ、日本にもその影響力が持ち込まれようとしていた。全世界の読者たちを捉えて離さない「魔法使いの世界」は、どのように日本を飲み込んでいったのか。それは大人2人の熱意から始まった…
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☆ マガジンハウスを定年退職 小出版社の販売代行会社を起業 |
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(有)ブックストラテジーサービスの豊田さんが静山社の松岡佑子社長に初めて会ったのは、99年2月17日に遡る。
豊田さんは大手出版社、マガジンハウスで販売部長を経験するなど、出版物の営業においてはプロ中のプロだ。約40年間、勤め上げた同社を定年退職し、新たな挑戦を求めていた。そんな時、豊田さんが着目したのは小出版社の営業面の弱さだった。
日本には、約4000の出版社があるといわれるが、そのうちの9割以上が10名以下の小出版社、本や雑誌を執筆・編集する人はいても、それを売る営業マンがいないケースがほとんどだ。ただ、できた本を販売会社に持っていって、言われた部数を書店に流し込むだけ。売るための活動としては、せいぜい新聞に小さな広告を打つくらい。だから良い本を作っても注目されるはずもなく、全然売れない。本を出せば出すほど、赤字になっていく…。悲惨なことに、出版業界はそんな悪循環に陥っているのが現状だ。
「40年間、出版業界でお世話になったから、今度はお礼奉公しよう」。そんな思いで豊田さんが起業したのが、(有)ブックストラテジーサービスだ。小出版社を営業面から支援する会社を、同世代の引退した出版仲間と始めた。
豊田さんはマガジンハウス時代、販売局で約20年間、雑誌・書籍を売る仕事に携わってきている。しかし、全国の書店は2万軒以上。1軒ずつ営業で回るには、膨大な数だ。そこで、当時販売会社が主催していた地方書店との親睦会「トーハン会」「日販会」などにマメに顔を出し、拠点ごとの有力書店に人脈を着々と築いていった。出版界での豊富な経験、そして20年間培ってきた人脈の強さが、豊田さんの最大の武器となっていったのだった。
ところが、独立後はまさに苦労の日々が続く。豊田さんが小出版社の出版物を持って書店に営業しても、書店人からはなかなか相手にしてもらえない。これまで培ってきたコネをもってしても、だ。書店に本を置いてもらうことすら許されない。単なる売り込み活動では限界を感じていた。
そこで考えたのが、マスコミに記事として取り上げてもらうことだった。そうすれば本の信頼度が上がり、その記事を持って営業に回ることができる。
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☆ 静山社の松岡佑子さんと出会う |
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そんなころ、飯田橋の書店、芳進堂ラムラ店の武藤浩平店長から「営業で困っている人がいますよ」と紹介されたのが静山社の松岡佑子社長だった。
松岡さんは国際会議の通訳者として30年間活躍してきた人物だ。出版社を経営していた夫が亡くなり、夫の遺志と会社を引き継ぐことになったのだ。それまで出版経験はなかった。しかし、通訳で鍛えた英語力を生かし、海外の良い本を翻訳して出したいと思っていた。そうして、偶然出会ったのが「ハリー・ポッター」である。松岡さんの熱意がイギリスの出版社ブルームズベリー社と、著者J.Kローリングに伝わり、同じく版権獲得に躍起になっていた日本の有力出版社3社を抜き去り、見事取得に成功、そして出版販売のベテランである豊田さんに相談を持ちかけたのだ。「イギリスとアメリカで発行された『ハリー・ポッターと賢者の石』と『ハリー・ポッターと秘密の部屋』は今世界中で話題になっています。どうしても、この本を日本で広めたいのです。手伝っていただけませんか?」。松岡さんはバッグからその2冊を取り出し、豊田さんに熱っぽく語った。
豊田さんは振り返る。「あの時の松岡さんの熱意には本当に打たれましたよ。『私は読んだんです。これは絶対に売れます。自分が読んで自分が翻訳して、自分がどうしてもこの本を出したいのです』と言う。それには豊田さんの力を借りるしかないと言われたら、引き受けるべきと思いましたね」。
豊田さんは正直なところ、手伝おうかどうしようか迷っていた。長年の出版業界での経験上、外国で大きな成果を上げた本が必ずしも日本で成功するとは限らない事例をたくさん知っているからだ。しかし、松岡さんの熱意に押される形で2週間後、引き受ける返事をした。その日から、松岡さんは本来の通訳の仕事の合間に「ハリー・ポッター」の翻訳を本格的に手がけ、豊田さんはいかに注目される販売に持ち込むかを考えることになった。
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☆ 『ハリー・ポッターと賢者の石』売り込み開始 |
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静山社は国際会議通訳者必携の本、『英日国際会議用語事典』を90年3月下旬に出版、松岡さんが初めて出した本だ。その見本を持って松岡さんとともに、取次各社や書店の幹部にあいさつして回った。そのとき「実はこれから大きな翻訳本を出すので、ぜひよろしくお願いします」と予告した。だが、例のごとくほとんど聞いてもらえなかった。
しかし2人はあきらめなかった。とにかく一般の人の意見も大きく取り入れようと、トーハンに勤務している豊田さんの知り合いを訪ねた。出版業界から男女4人をピックアップしてもらい、以降、多くの意見を仰ぎながら、本の装丁や定価など細かいところを決めていった。取次への売り込みにプロジェクトチームの発足、あともう一つ何かが足りなかった。
そこで、以前から着目していたマスコミへのPR活動を始めることにした。豊田さんは編集経験がなく、編集部とのコネもなかった。まずは広告代理店出身の社員から新聞社広告局担当者を紹介してもらった。「豊田さん、プレスリリースを作ってください。松岡さんのこれまでの職歴や『ハリー・ポッター』の海外での売れ行きなど、有効な情報を全部盛り込むことです」。そう教えを受け、さっそく松岡さんに、これまでに出席した国際会議のリストや過去のパブリシティを聞き出し、リリースの資料を書き上げた。
そして、その資料を持ってマスコミ各社の広告局を直接何十社も回った。編集部だとハードルが高いので会うのも大変だが、広告局だと比較的会ってもらいやすい。そして、いざというときに編集部の担当者を紹介してもらうのだ。そうした対マスコミPRと同時進行で、都内の主要な書店や販売会社への営業にもリリースを持って回った。特に親しくしている書店の人たちには、アドバイザーになってもらい、口コミで「ハリー・ポッター」の本を書店人に広めた。洋販の副社長からは「ニューヨークタイムズ」のブックランキングで55週連続で「ハリー・ポッター」の第一巻、二巻、三巻がそれぞれ1位、2位、3位になっていることを聞き、さっそくプレスリリースの資料に追加した。新しい情報が入り次第、次々にリリースの資料に追加していったため、最後の方は随分、分厚くなった。松岡さんも通訳の仕事で訪ねた各地で、暇を見つけては書店にあいさつしに行った。
豊田さんはとにかくフットワークが軽い。必要な人にはすぐにアポを取って会いに行くし、仮に会ってもらえなくても、飛び込みで必要な資料だけ置いてきてしまう。
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☆ 1ヶ月で27万部を超える売れ行きに! |
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そうした地道な活動を半年以上続けた成果があってか、9月にラッキーな追い風が吹いてきた。イギリス、アメリカで読書離れした子供たちが「ハリー・ポッター」に群がる話や、魔法の世界の出来事が週刊誌「AERA」や「Newsweek」にカラー写真で掲載されたのだ。これをカラーコピーして、それまでの集大成とも言うべきプレスリリースを作り、これまで会ってきたマスコミ各社の担当者に郵送した。そして、松岡さんの翻訳はまだ完成していなかったが、10月に入って発売日を12月1日のクリスマスセールにぶつけることを決めた。その時点で、マスコミ各社には、発売1ヶ月前から次々と取り上げてもらえるように、担当者にうまく仕込んでいった。本が発売されてから取り上げられるようでは遅い。特に、月刊誌などの発行サイクルの長い媒体にはかなり早めに連絡しておかないと、載せるタイミングを逸してしまう。
書店営業は活動できる人数も数人しかいないため、大手書店に絞り、社長や役員、本部長などに直接アポを取り、トップダウン方式で営業した。豊田さんの人脈がフル活動した時期だった。
そして10月末、書店から部数の申し込みが集まった。数えてみると、合計で何と1万4,000部もあった。さらに、11月初旬、販売会社とも部数を交渉し、通常、せいぜい5,000部前後で決まるところを2万7,000部で決めた。そこで、初版は3万部刷ることに決まった。「あの時、松岡さんがどうしても3万部刷るといってきかないんです。私は長年この業界を見てきましたから、書籍の売れ行きというのがどれくらいかは知っているつもりでした。だから反対したんですけど、今から思えば松岡さんの直感は正しかったんです」(豊田さん)
いよいよ発売の時期が迫ると、これまで豊田さんが半年以上かけてマスコミ各社に仕込んできた努力が花開き、次々に「ハリー・ポッター」と松岡さんの報道が始まったのだ。TBS「筑紫哲也NEWS23」「北海道新聞」「週間読書人」「東京新聞」「河北新報」「信濃毎日新聞」……。さらに、連絡を取っていなかった所からも取材が殺到し始めた。
そして、99年12月1日、「ハリー・ポッター」は発売された。初版はあっという間になくなり、毎日1万部以上増刷するという、予想をはるかに超える売れ行きだった。発売後すぐ日本テレビ系「ニュースプラスワン」、月刊誌「ダヴィンチ」、週刊誌「婦人公論」、「AERA」などに紹介された。「朝日新聞」の批評の広場というコーナーで、「ハリー・ポッター」が社会現象として4人の書評家に紹介される記事が掲載された。これらの記事で、売れ行きにいっそう拍車がかかった。12月末には、すでに28万部も売れていた。そして、ある程度の売上の目安がついた段階で初めて、正月付の朝日新聞に広告を出稿したのだ。
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☆ 7人に1人がかかった「魔法の世界」 |
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年明け後も売れ行きはどんどん加速していった。売れれば売れるほど、新聞、雑誌、テレビ…と、報道は勝手に増えていく。NHK「おはよう日本」や朝日新聞の「天声人語」などにも紹介され、大きな反響を呼んだ。豊田さんは40年間の業界経験のなかで担当した本が、目の前で飛ぶように売れるのを見たのは初めてだった。豊田さんは言う。「よく書店に顔が利くからいいねと言われるけれど、本を売るのは人脈だけじゃ到底やっていけません。それ以上に、売る内容がしっかりしていなければならないのです。編集と販売というのは車の両輪ですよ。どちらにも力がないと、永久に回らないし、前進していかないんです。」
あれから3年、「ハリー・ポッター」は第一巻、二巻、三巻、四巻で合計すると、1,630万部を突破。第一巻で話題になれば、第二巻以降はマスコミ、書店ともに勝手に向こうからやってくる。「ハリー・ポッター」が大ヒットしたのは、決して潤沢な広告費があったからではない。売る人たちの熱い情熱があったからだ。
「ハリー・ポッター」の勢いはまだとどまるところを知らない。
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